ごくり と 雛森は唾を飲み込んだ。
曝け出した肩が寒い。こんな服を着ている己の姿を、彼女は一度だって想像したことがなかった。普段から、清楚な白いワンピースを愛用していた。5枚のワンピースをずっと着ていた。聖母と呼ばれた偉人の真似である。
熱心な宗教家の両親の家に生まれ、それを誇りにもっていた彼女にとって、水商売の女のような派手な色と形のこの服に袖を通すことは、辱しめを受けるも同然の屈辱だった。
だが、今はそのような我侭を言っている余裕はない。それは彼女が一番知っていた。
唇を真一文字に結ぶ。
港に停泊している幾つかの大型船を首が痛くなる程見上げた。
目当ての船は黒塗りで 光を受けて不思議に輝いている。
(あそこに、今から乗り込むのね…。)
そう改めて認識をすると、心臓がうるさく警鐘を鳴らし始めた。
神に、教えに逆らうのかと、騒がしく彼女自身の良心が鐘を鳴らしているのだ。かみ締めた下唇は痛かった。
首のペンダントを、両手で包み込むと、ひんやりとした感触が伝わってきた。
中には小さなロザリオが埋め込まれている。宗教に関するものはすべて置いてゆこうと思ったのだが、どうしてもロザリオだけは手放せなかった。隠された十字架と向かい合うこととなる反対側には、祖母の形見である、鳥の瞳。
深呼吸して目を閉じる。手は自然と胸の前で組まれた。
(神様、今からする罪を…どうか、お許し、下さい。)
そう 堂々と祈る事が出来るのは最後だろう。
目を開いても 世界は微動だにしてはいなかった。
目の前ではためく旗に描かれた髑髏が笑ったようにみえた。
ごくり、と唾を飲み込んだ。その音が、やけに大きく耳に響いた。
黒い背景に描かれる、銀色の髑髏。そして、まるでそれを否定するかのように、裏ではなく手前でクロスされた二本の骨。あまりに有名な船長の、有名な船の、有名な旗。
震える手で、最後に強くペンダントを握り締めた。
震えが止まることはなかったが、少しだけ勇気が出た気がした。
(行け、行くのよ、桃。)
そう自分を叱責して、足を一歩前に出す。
強い向かい風から目を守ろうと、下を向いて走り出した。
唐突に視界に現れる黒い靴。
びくりと顔を上げると、至近距離にニヤついた男の顔があった。ぞくっと背筋が凍る。
目の前のその船の船乗りだろう。
「何か御用かい?」
酒臭い息が顔にかかる。鳥肌が立ちそうだったが、どうにか地に足を縫いつけた。
こんなのじゃ、先が思いやられる。そう自分に叱責して。
「おい、女ひっかけてないで早く搬入しろ」
船上から声が降ってくる。目の前の男は、船をまぶしそうに見上げながら叫んだ。
「ああ、今行く」
くるりとこちらを向きなおし、ずいと顔を近づけてくる。
口を開かなくとも酒臭い。
「用事がないんだったら、行くぞ。」
今度この港に寄ったらお相手してくれよ。そう耳元で囁き残して、男はきびすを返した。
寒気と嫌悪で声が出なかった。
言わなければ。
「あ、あのっ!」
震える声を張り上げると、きょとんとした顔で男たちが振り返った。
血がにじむかと思うほど、強く拳を握りこめた。
「私を、船に乗せてくださいっ!」
ふわり。
鼻先を、サーベルが掠った。
さぁ、っと血の気が引くのを確かに感じた。
上から降ってきた其れは、カランと音を立ててコンクリートを叩いた。
腰が抜けて、どっとその場に座り込んだ。
「巫山戯てんじゃねえェぞ。」
低いバスの声。
「あ…。」
見上げると 船の手すりに足をかけ 見下ろす男が見える。そう それこそこの船の持ち主
銀狼。
成る程 その呼び名に相応しい。日の光を受け 煌めく銀色の髪と 鋭い目つき。
冷たい 目だった。
ぞわり と背中が撫でる。
船長になれるような年齢ではないと聞いてはいたが、その姿は自分と同じほどの歳にしか見えなかった。
しかし、そこから放たれるものは自分と比べる気すら起きない程激しいものだった。
それでも 何か言い返さないと…そういう焦りで雛森は慌てて口を開いた。
「家事も殆ど出来ます それに−…」
「こっちは娼婦なんざ雇う気ねェんでな。風俗にでも雇ってもらえ。」
すっぱりと綺麗に断られた事に 弱気になりかけたけれども 負けてはいけない。
その一心で持ち直した。
サーベルを無表情で落としてくるぐらいなのだから これ以上言ったらやはり 殺されてしまうのだろうか−…?
数ミリズレていたら血まみれだった。
それでも構わないなかった。
(命など始めから捨てきたじゃない。)
形振り 構って られないのだ。
「邪魔にはなりません 歌も歌えます!船に 乗せて欲しいんです!」
銀狼の苛つきが露わになる。
射抜くような視線で貫かれ 思わず目を伏せそうになった。
怒らせてしまったのだろうか…。
視線を外したくなったが ここで今更弱気になっても と思い直し銀狼から視線は離さなかった。
チッ という舌打ちの音が聞こえる。
目を伏せるついでに視線を離される。
…舌打ちなど普通此処まで届くはずがないのに 器用だなぁなどとマヌケな事を考える。
「まぁまぁ 船長 歌声ぐらい聞いてみません?」
にへらとした口調で船員が言う。ホッとして その男に目を向ける。
微かながらに ありがとうの意を込めて。
「…一曲 歌え。そしたら諦めろ。」
うざったい という言葉が眉間の皺に現れている。
早くしろと 催促するように顎を動かすので 雛森は頷いて息を吸った。
最後の歌になるかもしれない…。
そういう時 何を歌おうと悩む必要はいつも無かった。何時だって この歌が助けてくれたのだ。
滑り出しは順調だった。
次から次へと、考えなくても歌詞は続いてゆく。
ラから 始まる歌。
その歌は雛森の好きな歌だった。意味も語源すらもわからない。
呪文のように 音だけで覚えた歌。
彼女が大好きだった祖母が いつも歌い聞かせた歌でもあった。
銀狼の唇が微かに開いた。
「あ」の口の格好で止まる。
見開いた目の 綺麗な色が目に焼き付く。
再び視線がかち合ったが 彼女の唇は止まらずに音を紡ぎ続け 銀狼の世界は止まったかのように硬直した。
ふわりと 海風が銀狼の髪を撫でる。
光を受けた髪がキラキラと輝きながら揺れている。
(…幻想的。)
そう思いながら雛森は歌い続けた。まるで 全ての思いを込めるかのように。
自分の腕には自信がある。
サーベルも 始めから鼻先が掠るように計算して投げたものだ。一度たりとも外した事は無い。
要らない奴を追い払うのには良いのだ。大半はあれで腰を抜かして逃げ去ってゆく。
…まぁ 度胸試しの一環に近い。
相手を確認する前に投げたので 女と気付いたのはサーベルが手を放れてからだった。一瞬後悔した。
けれども 此奴はその場に居座った。
…腰が抜けたのは同じだったけれども。
聞くだけ聞いて 気に入らないで追い払おうとした。
女など必要無いのだから。
知らない 歌だった。
こんな歌 知っているわけもない。
ラから始まる歌。
海風も 波ですら その声に耳を傾けたのかと思った程静かになった。
…否 静かになったというのは適切な表現ではない。
止まった のだ。
表面が止まるのとは違う。
魚すらも 海草すらも きっとあの時間は止まっていた。
世界が 止まり 歌だけが流れたのだ。
もっと もっと もっともっと。
紡げ
紡げ 紡げ 紡げ 紡ぎ続けろ
やめるな 止めるな止めるな。
止めないで。
その歌声を聞きたい。
その声を聞きたい。
知らない沸き上がる感情と同時に 別の感情も沸き上がり始めた。
久しく覚えなかったその感情の名前を思い出す事が出来ない。
聞かせたくない。
俺のだ。俺だけのだ。
別の野郎になんて 聞かせたくない。
俺だけのものに したい。俺だけの 俺だけのものに。
聞かせるな 聞かせるな聞かせるな
それ以上 俺以外の奴に その声を 聞かせるな。
後者の感情の方が その場では強く働いて その歌を遮るようにして 絞り出すように声を出した。
「テメェ 名前 は?」
ぱっ と 表情が変わった。ほっとした様な表情で にへらと笑う。
「雛森 桃。」
名を紡ぐその声ですら
俺だけのものにしたいと 感じた。
長いスカートの端を持ち 足を曲げぺこりと 雛森が頭をさげた。
黒い髪が 滑らかに落ちる。
「はじめまして キャプテン・シルヴァーウルフ」
声が出なかった。
自分の名を 紡いで欲しいと 心の底から思った。
其れは渇望 と 呼ぶのだとと頭の隅で誰かがやんわりと教えてきた。
「船長?」
止まる時間に 訝しげに船員が聞いてくる。
…長い間 自らも勿論 誰も紡ぐ事の無かった名が 口から零れ堕ちた。
「日番谷 冬獅郎。」
雛森の黒い瞳が見開かれてゆく。
「好きなように呼べ。キャプテンは必要無い。」
戸惑ったように 視線を宙に浮かす。
そうしてもう一度自分に戻ってきた彼女の視線を日番谷は捕まえた。
「日番谷 君。」
嗚呼 それはついぞ聞かぬ名だった。
ゾクリ と背中を駆け上がる其れは何だったのだろうか。
知る術も無ければ 知るつもりもない。
誰かになど くれてやるものか。
「船には乗せる。ただし 俺のモノ限定だ。」
良いな?同意を乗せた視線を しっかりと相手が受け止めた。
こくり と 頷く。
「「「「「え゛え゛え゛ーっ?!!!!」」」」」
いきなり後ろから聞こえてきた大合唱に思わずびくんと日番谷の肩が跳ねる。いつの間にか増えに増えきったギャラリーが 所狭しと並び ずるいだの職権濫用だの口々に叫んでいる。
歌声につられて船員が全て集まってきたらしい。
少しの合間唖然とした顔をしてから 気をとりなおしギロリと睨むと渋々男達は口を噤んだ。
ブツブツとは言うものの 船長のモノに手を出すほど莫迦では無いのを知っている。
「乗ってこい。歓迎するぜ 雛森。」
その名は口に出しても綺麗だと思った。
雛森は もう一度微笑んで頭を下げた。